澤熊講師と歩く山城シリーズ第一回 2008.09.23.火

竹田城跡と生野銀山

久しぶりの澤熊ツアーだ。ここんとこ山ばっかし行ってたのでご無沙汰だった。

バスの中で講師の説明があるので、ノートにポイントだけメモしておく。日記を書くとき、それを見て残りの記憶を呼び出すのだ。熊野古道シリーズではこれで大成功!
しかぁ〜しっ★・・今回は大失敗★・・指が動かないっ★が出てこないっ★・・違った・・が出てこないっ★出てきてもペンが走らないっ★

「おい・・オイ・・老い・・」・・悲;・・ぐえっ★

10:12
竹田城だけやと時間も体力も余りすぎるので、近くの生野銀山へ・・
ここではバス一台につき一人の案内人がつくのだそうだ。

右の写真は徳川時代の末期に手彫りで彫られた洞窟。奥の部分や付近の無数の穴は窄岩機の為絞りの跡。今は鉱業守護の神、金山彦命を祀った山神宮の分社となっている。

優れた山師に「大久保ちょうあん?」がいて、どこの銀山でも名前が出てくるそうだ。彼の右に出る者はいなかったため、家康にも大事にされ、よ〜さん¥をもろてるのに、調子こいて私腹を肥やし・・肥やし・・
彼が生きているうちは家康も我慢していたが、亡くなってから一族郎党を全て処刑してしまった。(男の執念深さも相当やニャ・・)


さて・・ここからは案内の方・・まずは資料館に入って説明を受ける。

竹田城の殿さんが治めていた

銀・亜鉛・銅・鉛・錫・・などなど・・多くの種類が採れた
世界遺産に登録された石見銀山(当時世界中の銀の三分の一を産出)では銅・錫などが出なかった
住友?は金山。人形峠はウラン・・

フランス人の技師・・え〜と・・が、眼をつけ、15人の技師を連れてきた・・ダイナマイト使用っちゅう事ですわ〜伊藤博文の給料?が350だったのに対し、技師の給料は400を越えたとも・・

●M22〜29年、天皇家の御領所。M29年、三菱合資会社・三菱金属(株)が昭和48年3月まで所有・操業。
石見銀山は明治政府になってから一年くらいで掘り尽くされてしまうが、ここ生野銀山は昭和48年まで稼働したのだからスゴイ!

稼働時には地下800mを越える深さであり(1000m近く堀った話も)地熱で常に気温35度・湿度95%を越える環境だった。800mを越えると山掘り?現象??が起き、掘ったところが次の日壊れているという現象が起きた

●昔は一日3〜5cm掘り進み、一ヶ月で30〜50cmほどしか掘れなかった

などなど・・資料を実ながらの説明。
10:24 さあ〜!いよいよ坑道へ・・あ・・左横の階段は山の方へと続いている。

昔は山の中で鉱脈をみつけ、下へと掘り進めていったそうだ。だから、最初はこの上から銀山は始まったのである
なんでも金銀がかたまりで表面に出ていたそうで、そこから掘っていったとうだ。
坑内は空気が滞る。そのため、こういう「唐箕(とうみ)」で風を送った
樋引(ひびき)人足

坑内の地下水を引き上げ、外に排出する仕事。

最盛時には地下800mを越えていた坑道も、現在は水を排出しないため、地下50mまで水没している。
「狸掘(たぬきぼり)」
人、一人、通れるかどうかの狭さ。鉱脈に従って、やっと通れるほどの穴を作り、掘り進んだ。これがいたるところにある。このように身体の向きを変えることさえ難しい穴蔵なので、坑夫は三日三晩飲まず食わずで(排出物を出さないように)掘り続けたと言われる。

灯りは「なたね油」。ロウソクではススが出たりして汚れるので使われなかったそうだ。
ふと・・疑問が・・
「こんな所に三日三晩なんて・・気が狂う人は出なかったんですか?」
「あったそうですよ。そのため赤いふんどしをして魔除けにしていました」


事故で死んだり、自殺したり・・どこの鉱山でもお地蔵様が入り口に祀られていたそうだ。
鉱脈が下に伸びれば下に・・上に伸びれば上に・・ハシゴの代わりに木に彫り込みを入れた「雁木(がんぎ)」が使われていた。

今、この坑道を貯蔵庫としても使っていて、
手前から清酒(3年間)ワイン(5年)一番奥に焼酎(7年)が寝かされる。
このあとは、近代になって器械が登場。一気に掘り進められる。
フランス人が来たんかな?
火薬を背負って仕掛けに行く。何カ所かで一度に爆発させるとお互いが支え合って崩れなかったりするので、一箇所、一箇所、爆発させる。
五枚合掌支柱組
崩れやすい箇所に使われた方法。木々が上手に頑丈に組み合わさっている

写真は取材中のサイコロさん(澤熊ツアー常連というか・・ぬし。もう一人「会長」もいる)
真下へ伸びた坑道。
オイシイ水!秀吉がこの水で茶をたてたとか・・
以前は観光客にも飲めるようにコップなどを置いていたそうだが、毎週?毎月?水質検査に持っていかねばならず、大変なのでやめたそうだ。
坑道内のエレベーター
エレベーターには囲いがない。
巻き取るロープ?の長いこと・・(左写真)でっかいドラム缶になる。
近代では三日三晩などという事はなく、3交代でフル稼働。夜中でもハッパの音がした事もあるという。
坑道は次第に深くなるため、8本のエレベーターや人車で作業場まで移動したが、なにせ暗いし長いし・・着くのに2時間かかる作業場もあったそうだ。それって・・トクかな?

総延長は350〜370km。佐渡は400km(新潟〜東京)

掘った鉱石は瀬戸内海の直島の精錬所に送り・・大阪の堺へ。造幣局は大阪が本局で他は支局(だそうな)

明治10年ほどには生野では無税時代があったんだそうだ。

この辺り一帯は、もともとは「しの」と呼ばれた土地だったそうだが、応神天皇がこの地を通られたときに
「縁起でもない。死を生きるにせよ」と仰ったため「生野」となったそうだ。

盗賊などが銀があるのを知っていて人を近づけないために「しの」と読んでいたのではないかという話もあるそうだ。
11:14 ・・どこにでも・・ごまかす人がいるので・・こうして役人も・・二人ずつ2交代で見張っていたそうな・・
第二次世界大戦中、ここ生野にはイギリス・フランスの捕虜が多く働かされていたので、終戦後、物資が山ほど運び込まれたそうな。

●採掘量200(単位は忘れた)で採算がとれるのに、生野では600採れた。

●鉄砲の伝来で金銀がたくさん必要になった

坑内は口笛禁止!絶対禁止!これは緊急時に笛など吹いて知らせるためである。近代では菜種油は使わないので、マッチを持って入った。空気の有無を知るためである。

さて・・これで説明は終わり。ありがとうございました!他にも山ほどの説明をしてくださったんだけど、忘れた・・あとは現地でのお楽しみでぇ〜すっ♪みなさん、生野銀山に行くのよぉ〜・・・え?スベッタ?・・・・・・・・・

さて・・11:30にはバスに集合である。トイレもすませないといけない・・
でも・・
行きたい所がある・・そう・・始めの頃に書いた・・入り口左横にある階段・・
最初の鍬入れ場・・

・・急げ〜〜〜っ★・・徒歩約30分?・・急げ〜〜★
ここまで早足・・でも・・そぉ〜んな悠長な事はしていられない・・

走れ〜〜〜っ★
あと100m?・・走れ〜〜〜っ★

走った結果は・・ココをクリック!!

そして・・どえええ・・・戻らねばっ★・・走れ〜〜〜っ★走れ〜〜〜っ★
トイレは長蛇の列・・別のトイレへ!・・数人が待ってる・・駐車場のトイレへ!・・走れ〜〜〜〜っ★・・よ〜考えたら、もう走らんでええねんな・・
さあ・・ここから昼食場所へ!

肝心の竹田城は次のページへ!!

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