関ヶ原の陣跡を巡る 2006.09.14.木
今回のレポートは・・間違いだらけかも〜・・ウソ八百かも〜?
その場合は澤熊講師の説明を理解できない私の頭の悪さが原因です〜!
さあ〜間違いだらけの無責任・関ヶ原物語へご案内致します!
なお!正確な史実を知りたい方は来年も計画されるだろう、このツアーにご参加下さい!
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いつもながらバスの中では澤熊講師の説明を、頂いた資料に目を通しながら一生懸命に聞く!メモをとる! 関ヶ原は行ってみたいと思いつつも、だだっ広い原っぱを、どう歩いて良いやら・・と遠ざかっていた。あんなに伊吹山に行ってるのに通り過ぎるだけだった。でも今回、熊野古道でお馴染みの澤熊講師の企画が出たのでスグに申し込んだ!しかも!「ボクの最も得意とする分野です」と仰っていたから薄い胸も?期待に膨らむというものである! ・・ん?・・今日ばかりは男性というか・・オッチャン(私はオバハン)が多いなあ〜。 到着まで、トイレ休憩は挟むが、熱弁に継ぐ熱弁で・・止まらない!嬉しいなあ〜。 メモした事は順次書いていくけど・・全部はとても書ききれない! もっと読みたい方は来年の今頃には企画されると思うので参加して下さいな〜! |
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10:07 関ヶ原町 歴史民俗資料館 ここの道路向かいは、家康の最後の陣跡。最初、退路を考え後方に陣取っていた家康が、思うようにいかない戦ぶりに業を煮やし前進・・前進・・そして最終の陣を張った場所の跡がある。 今日は館長さんは会議のため、代理の方が説明をして下さる。 |
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地図です! 広げたまま読むと 分かりやすいです |
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10:30 一応、ここで区切って自由観覧。11:00には前の家康最後の陣跡へ集合。 この方も思う存分しゃべるには一日あっても足らないだろうなあ〜。聞きたいなあ〜。 館内を見学するも、更に説明を受けるのも自由なので、私はウロウロしながら「今だ!」と思えば説明を聞きに行く。 左の写真は言わずと知れたカブト。首が痛くないんやろ〜か〜と思ったら「これは実践では用いません。何というか・・お出かけ着のような物でオシャレ用です」 |
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石田三成が庄屋にあてた手紙です。三成は大垣城に籠もって戦おうとしたけれど、野戦を得意とする家康が「大阪城を攻める」と、ふれを出したので三成は慌てて関ヶ原に陣を敷いたように思われていますが、この書状に寄れば、それよりも前に「ここに陣を敷かせて欲しい」と頼んでいるので先を見通していたようです。 三成は頭が良くて理詰め。素晴らしい人物だが切れすぎるので人望が得られない。そこで他に大将をたてる必要があった。と、澤熊講師(バスの中で)なるほどなあ〜・・予期してたんや〜 |
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これは戦が始まる前に兵士達へ出された通達の書状です。物を略奪するな、婦女子に乱暴するな、などの細々とした規律が記されています。 鉄砲は当時「こういう物だっただろう」と思われているより遙かに進んでいます。 |
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これは家康の娘(誰だっけ・・)が嫁に行くときに家康に頼んで描かせた物です。関ヶ原の戦いが細かに描かれています。
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資料館を出たところ。 前にある道路を右へ行くと笹尾山:石田三成の陣
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徳川家康、最後の陣跡 戦がたけなわとなると家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1kmの、この地点に進ませました。ここで家康は陣頭指揮に当たると共に、戦が終わると部下の取ってきた首を実検しています。 周囲の土塁や中央の高台は、天保12年(1841年)に、幕府の命により、この地の領主・竹中家が築いたものです。(関ヶ原町) |
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見えてきました!右は小学校!左に何やら立っています。 島左近(勝猛かつたけ)の陣跡 三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたという。 前日の杭瀬(くいせ)川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣。 黒田・田中隊と奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて戦死したとも言います。 鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸々に様々な形で記されています(関ヶ原町) |
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いつもはバスの中での説明を思い出しながら中央から最後尾くらいをノタノタと歩くんだが、今回ばかりは頑張って前へと出る!出る!スルリスルリとすり抜けて出る! 参加の男性が質問している! 「結局、首は出なかったんですよね」 「そうですね〜。首塚にはないようですね」 などと話が陰ですすんでいるのだ! |
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小早川は真っ直ぐ駆け下りたわけではなく、右に迂回(小早川から見れば左に迂回)するように討って出た!そこには・・小早川は裏切るだろうと予想していた大谷吉継が! 予想通りとばかりに迎え撃ち、実に六度も押し戻した!・・が・・多勢に無勢・・ついに・・ そうして小早川勢は一気に・・ しかぁ〜し!何で毛利は討って出ぇへんかったんや?それはな〜家臣がな〜・・ この戦に勝てばウチの大将が天下をとる・・でも正直いうて治めるにはチカラ不足や〜・・逆に権力争いでツブされそうや〜ここは負けた方がエエんとちゃうか〜?・・と言ったかどうかは知らないが・・大将に情報を回さずに知らん顔を決め込んだ!・・かもしれない・・ う〜〜ん!みけちゃん、絶好調ぅ〜〜〜!(・・・ど〜なっても知らんでぇ〜・・) |
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「エコミュージアム関ヶ原」方向へと下っていく・・ 出たところは八幡神社。戦の神か〜? 道路標識がいくつもあって、まずは島津の陣跡へ。 |
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ちなみに・・島津は1000人規模の兵力だった。国元に息子を残し主力兵を残し、それでも血気盛んに馳せ参じた。薩摩は少人数でも精鋭!夜襲をかけると言う島津義弘を三成は鼻であしらった。たった仙人で・・もとい!千人で何ができるんや〜!ってな調子だ。 さあ〜そうなるとメンツにこだわる島津公!ヘソを曲げ、もう〜知らん!と、ここを出なかった! 出なかったが西軍は敗退。退却せねばならなくなり・・槍駆けの陣・・?ウソウソ・・何ていうとったっけ?・・なんしか槍みたいに先をとんがらせて一気に退却のために討って出る!そしてしんがりが数人、後ろ向きに鉄砲を持って追っ手を撃つ!撃つ!味方を逃がすために死を賭して敵を食い止める!・・「背進(はいしん)」ていうんやって・・ そしてまた次のしんがりが・・こうして実に!家康の鼻先をかすめて退却!結局80人しか戻れなかったという。それでも敵に囲まれた絶体絶命をよくぞ脱出できたというところ・・ |
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11:54 小西行長の陣跡 ここ、北天満山に4000の兵を率いて参戦しました。午前八時頃、戦闘開始の狼煙をあげ、味方に合図すると共に勇戦しています。しかし、小早川等の裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本多隊の衝撃で、兵士達が退却を始めたのは午後一時くらいの事でした。(関ヶ原町) |
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12:11 宇喜多秀家陣跡 西軍・副大将の秀家は17000の兵を率いて中山道を押さえた。午前八時頃、福島勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛・明石全登(てるすみ)の隊が激突しました。宮本武蔵が奮戦したのも、この辺りといわれています。 秀家は敗走中、池田郡白樫村の矢野五右衛門に助けられ、その後八丈島へ流され、83才まで生き延びています(関ヶ原町) |
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12:25 藤川台
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12:33 大谷(吉隆)吉継の墓 吉継は三成の挙兵に対し、再三、思いとどまるように説得しましたが三成の決意は変わりませんでした。旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束で、ここ宮上に出陣してきたのです。壮絶な死闘の末、吉隆は「首を敵方に渡すな」と言い残して自害しました。 これは敵方・藤堂家が建てたものです(関ヶ原町) |
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14:39 もう一つのポイント!養老公園到着! ここにある養老寺に家康が合戦の前に祈願し、戦勝後、剣を奉納したとか・・ 住職さんにプチ講話をして頂き、秘仏であるご本尊・十一面千手観音様を特別に拝観させて頂いた。 信長に焼き払われていたそうな・・今は・・あちこち修理が必要な様子が見て取れ、お賽銭を少々多めにしなければ・・と思うのであった・・ |
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更に、養老の滝へ・・!(2004年8月9日・月に牛さんと行ったページへどうぞ!) | ||||||||||||||
こうして、少々気持ちは残しながらも大満足の一日が過ぎていった。 今回は西軍の陣跡を巡ったが、東軍の陣跡も巡りたいなあ〜! |
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家康の陣は最初は、かなり後方で、退路の確保を重点にしてあった(桃配山) 退路に添うように有馬則頼・山内一豊・淺野幸長・池田輝政などを配していたので、彼らは戦闘に加わる事無く終結している。 |
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